一般社団法人 函館文化会の歴史

  


 「函館文化会」は、昭和33年(1958)に法人化されて以来60年にならんとするが、その源は遙か明治12年(1879)結成の「教員練習会」にまでさかのぼる。

 「教員練習会」は、「函館教育協会」、「函館教育会」、「大日本教育会北海道支部函館分会」と名称の変遷を経て活動を続け、初期の頃は教員の集まりで、教育の振興を図る自主的な研究団体であったが、その後、学校教育に止まらず、音楽会や講演会の開催、水泳会や林間学校の開設、児童雑誌の刊行、各種表彰など一般市民を対象とした事業を行ってきた。
 
 昭和26 年(1951)に設立された函館郷土文化会の趣旨や会員などに、重なりが多く見られることから統合の話が持ち上がり、昭和33(1958)年2月24日、北海道教育委員会の設立認可を得て「社団法人函館文化会」が誕生、さらに事業の深化拡充を図り活動を続けることとなった。

 なかでも、図書の出版に積極的に取り組み、昭和28年(1953)に市立函館図書館所蔵の『亜墨利加一条写』の複製本、翌29年(1954)には郷土史研究家がNHK函館放送局で連続放送した話をまとめた『郷土昔話』、また、昭和32年(1957)、函館郷土文化会会長斎藤與一郎がNHK函館放送局で1年間連続放送した『非魚放談』を会員が中心になって刊行委員会を構成して発刊。これらの出版物は、いずれも幕末・明治時代から続く函館の人びとの文化的・先進的な、いわゆる「函館人気質」の一端をうかがうことができる意義のある事業であった。

 さらに、函館における文化の発展に向けての援助・協力を積極的に行い、展覧会や書道展、音楽会、講演会などに対する助成、石川啄木銅像建設、松前城再建事業、高橋掬太郎詩碑建立、「啄木文庫資料目録」出版費など、文化事業の資金の一部を寄附することなど多岐にわたっている。

 また、弁天台場、五稜郭、碧血碑、権現台場、函館護国神社、宇須岸河野館跡の各所に標注や説明板を設置し、後の観光案内板の先駆けとなる事業も展開した。現在も、函館どつく株式会社函館造船所の通用門脇の「弁天台場跡」などの標注5本が風雪に耐えた姿で残されている。

(北海道文化奨励賞 昭和38年受賞)     (函館市文化賞 昭和56年受賞)

 これらの活動が、長年にわたっての教育・文化に対する貢献と認められ、昭和38年(1963)に「北海道文化奨励賞」を受賞、また、函館文化会創立100周年に当たる昭和56年(1981)には、人文科学の分野で「函館市文化賞」受賞の栄誉に浴した。

 近年における活動は、郷土史研究奨励事業として、平成元年(1989)に郷土史研究家 神山茂氏の業績を称え、後進の研究者を励ます目的を持って「神山茂賞」を制定、毎年神山茂氏の命日に当たる11月 7日、函館市及び近郊の地域にまつわる郷土史研究の個人及び団体に対する表彰を行うほか、郷土の歴史・文化を学び、伝承するための「講演会」や「市民公開講座」、郷土文化団体への助成・支援事業などを行っている。
  
 平成20年(2008)、国の「公益法人制度改革三法」の施行に伴い、函館文化会は平成25年(2013) 4月1日北海道知事から認可を受け「一般社団法人 函館文化会」として再発足、また、函館文化会事務所は、永年、社会福祉法人函館厚生院の厚意により函館厚生院看護専門学校を借用していたが、同校舎の移転改築に伴い退去することとなり、平成28年(2016) 3月1日学校法人野又学園の協力を得て函館大学内に移転することができた。これらを機に、函館文化会の設立経過や定款の目的に掲げる「郷土の文化を顕揚し、その振興発展を図る」との趣旨に鑑み、将来に向けてさらなる充実、深化を図りながら、郷土の文化のさらなる振興発展を目指していく。


函館文化会 役員名簿


                        (令和6年度定時総会選任)

会  長 平 原 康 宏
副 会 長 絵 面 和 子 櫻 井 健 治
常務理事 上 田 昌 昭
理  事 小笠原 隼 人 小 熊 庸 介
佐々木   茂 佐 藤 育 子
須 藤 由 司 中 野   晋
藤 井 方 雄 藤 井 良 江
山 本 真 也 若 山   豪
監  事 佐々木 俊 克 宮 脇 智恵子 
顧  問 金 山 正 智